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二話一節 もう一度、雨の夜に

last update Date de publication: 2026-08-13 15:54:44

一節 もう一度、雨の夜に

その夜は、一ヶ月ぶりの豪雨だった。

仕事を終えた悠は駅へ向かう人の流れから少しずつ外れ、傘を打つ雨音を聞きながら、以前歩いたはずの裏通りへ足を向けていた。

今日は酒を飲んでいない。

あの夜から毎日きちんと、というほど立派な生活をしているわけでもなかったが、朝はなるべく何かを腹へ入れるようになった。食パン一枚の日もあれば、時間がなくてバナナだけの日もある。それでも、眠るためだけに酒を飲む夜は少し減っていた。

別に、誰かに褒めてもらうほどのことではない。

そう思いながらパンを齧る朝ほど、不思議と柔らかな声を思い出した。

澪。

夜を迎えるたび、名前だけでなく、その姿まで思い起こされるようになっていた。

「……この辺だったよな。」

誰に言うでもなく呟いてから、悠は路地をひとつ曲がる。

しかし探していたものはない。

もうひとつ曲がっても、濡れた壁と閉じたシャッターが並んでいるだけだった。

この数日、もう何度、同じことを繰り返してきただろう。

そのたびに、雨ひとつない真夏の夜の下、悠は独り、何もない東京の街をさ迷い歩いてきた。

やっぱり、あれは酔って見た夢だったのだろうか。

そんな馬鹿なことを考えながら、諦めかけたそのときだった。

雨の向こうに、橙色の灯りが滲んだ。

《月影珈琲館》

古びた看板を見つけた瞬間、悠は知らず微笑んでいた。

……チリン。

懐かしい鈴の音。

扉を開けば、珈琲の香りと古いレコードの音が、雨に冷えた身体を迎え入れる。

「いらっしゃいま……。」

カウンターの向こうにいた澪の声が、途中で止まった。

彼女はほんの少し目を見開き、悠の顔を確かめるように見つめてから、いつもより少し遅れて微笑んだ。

「……悠さん。」

名前を覚えていてくれた。

ただそれだけのことが、この夜の悠には、この一ヶ月のなかであった何事よりも嬉しかった。

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